ものを作るということ

『読む美術館』

山内宏泰(リアス・アーク美術館 主任学芸員)氏の資料を転載させていただいております。
いつか訪ねてみたい美術館です。
すばらしい内容です。


形而下と形而上

「具象・抽象」と似た言葉で「形而下・形而上」という言葉があります。
ケイジカ・ケイジジョウと読みます。形而下とは「かたちのあるもの」という意味で、形而上とは「かたちを知覚できないもの・かたちをこえたもの・無形」という意味です。


美術表現の中にはこの形而上的な事柄をなんとか目に見える形で表現しようとする歴史、試みが数多く存在します。

私たちは普段、目にするものを自分が知っている形に当てはめ、確認することでものを認識しています。
そうすることで安心して暮らすことができているのです。
しかし生きていれば自分の知らない形や、そもそも形を持たないものが突然、漠然と目の前に現れることもあるのです。
例えば「自分の死」ということを具体的に経験することはできても、自らその経験を表現することはできません。


そのためこれだけ長い人類の歴史があっても、死ということには具体的な形が与えられずにいるのです。それから同じように「命」を具体的な形で明確に表現することもとても難しいことです。
また「時間」を形で表すことも同じように困難です。


実は私たちの人生には形の無い、しかし生きてゆく上で避けることのできない様々な出来事がたくさんあるものです。
美術家はそのような目に見えない重要な問題を、作品を通して「抽象表現」しています。



具象表現は具体的なものを表現していますが、それが何であるかを説明するために形をそのまま表現しているわけではありません。


例えば戦場で泣き叫ぶ子供の姿を写した写真があるとします。
その写真がうったえようとしていることはなんでしょう?「子供が泣いている」という目に見えることだけでしょうか?


具体的なものが描かれていたりしても、そこで語ろうとしていることは形のない思想や概念であるということは、実は普通のことです。
私たちが感じることや考えることには形が無い、形では表されていないこと、つまり形而上的なことのほうが多いのです。
ですから抽象表現も具象表現も実は表現しようとする内容の上で大きな違いは無いのです。


見た瞬間になんだか分からないということは普通のことなのです。相手を深く知ろうとすることで、だんだんに理解してゆくものです。


ものを見るということ


石はなぜ石か。ネコはなぜネコか。
普段当たり前に思っていることがなぜそうなのかを考えることが絵をかくこと、ものを作ることの基本です。


私たちは特別な能力がなくても「ジャガイモ」と「石のジャガイモ」と「粘土のジャガイモ」を見分けることができます。
それなのになぜ描き分けることは難しいのでしょう?
目の前を走り抜けるネコを一瞬でネコと判断できるのに、ネコを正確に描けないのはなぜなのでしょう?

ものを見る仕組みについて


私たちは普段どのようにものを見ているでしょう?
実は私たちは脳でものを見ています。目は光を感じる感覚器でしかありません。
目に映る情報は頭の中で様々に解釈されます。
それが何であるか確認する作業が脳によって一瞬で行われているのです。



例えば私たちが普段、よその土地に行ってどこから来たのか尋ねられたなら「宮城県気仙沼市から来ました!」と答えます。
ところが関西などでは宮城県が日本のどこにあるか良く分からない人も少なくないですから、「東北ですか?」と聞き返されたりします。
そんな時は「仙台は知っていますか?」などと聞いてみます。
すると「あぁ!仙台ですね!、知ってます!」というような感じになるものです。
不思議なことに気仙沼がどこにあるかは相変わらず分からないのに「その辺だろう」という感じで納得されてしまいます。
実は私たちがものを見るときにも脳は同じような仕組みで情報処理を行っているのです。


通常ものを見るということは、あらかじめ頭に入っている簡単な記憶、例えるなら地図のようなものと、目に映るものを照らし合わせ、見ているものが何なのかを確認する行為なのですが、その地図は非常に大雑把なもので「東北の仙台近辺」程度の認識までしかできません。
それ以上の細かい限定は日常生活をする上で必要とされていないのです。


絵を描く上で最も重要なことは物をよく見ること。
しかし見るということはただ何も考えず普段通り見ればよいということとは違います。
絵を描くためには普段とはちがう、もっと詳細な記憶の地図を広げなければならないのです。
最後まで記憶の地図をたどって、初めて自分がものを見た時にどんな特徴を地図に書きこんだのか、ものを見るたびに根本から思い出してください。
そうすればものが良く見えるようになるはずです。


つくる

なにかを作るという事にはどんな場合でもまず動機が必要です。
それを作りたいという欲求がなければ人はものを作りません。
また仮に作りたいという動機がはっきりしていても、それを実現するための技術がなければ思った通りにものを作り上げることは難しいでしょう。


自己実現欲=なにかをしたいと思うこと
自己実現力=なにかを成し遂げるための力




作りたいと思った瞬間は、まだ「無」の状態です。
つまり動機と技術があればすぐにものが形になって目の前に現れるわけではありません。
材料を考え、方法を考え、いきなりでは難しいとすれば試しにやってみたり、作りはじめる前に考えなければならないことがたくさんあります。


実際にその材料は手に入るものなのか、値段はどうなのか。その方法が適切だとして、はたして実際に自分自身でそれができるのかなど。


それでも作りたいとすればどうするでしょう。
材料は必死になって探すことで手に入れられるかもしれません。
もしどうしても手に入らなければ代用できるものを考えることも必要でしょう。


技術がないとすればまずその技術を身につけなければなりません。
できる人に習うとか。自分で研究するとか。
何かを作るためには次のような準備が必要になります。


◎自分がイメージするものを目に見える形で認識すること
(設計図、下絵、メモなど)
◎自分がイメージするものをきちんと言葉で説明できるようにすること
(文章など)
◎最初に思い描いたイメージに少しでも近づけることができるよう最大限の努力をすること
◎はじめからうまくいくとは限りません。何日も、何年もかかるかもしれません。心の準備を。



そして、必ずしも求めた通りの結果が出るとは限りません。
ですが、やりたいと思ったことのために最大限の努力をし、結果なにも残らないということはまずありません。
そうしなければ得られなかった何かを手に入れることができるでしょう。
それはその先の人生の糧になるはずです。


スポーツに打ちこむとき、誰もが結果を求め精一杯の努力をしています。
しかし努力をすれば誰でも世界一になれるわけではありません。
それでもそれ以外の喜びがたくさんあるからこそ多くの人々がスポーツに打ちこむのです。
トップアスリートが「最後は楽しめるかどうかです!」という言葉をよく口にします。
自分の中で得られる喜びは外部の評価とはまた違うもの。
その喜びは本当に努力したものだけが平等に得られる喜びなのです。


才能のないものが努力をしても無駄?

だからやらない。


もっともな正論です。
しかし才能の有無が結果を左右するレベルとは、どのくらいハイレベルな話なのでしょう。


才能が問われるのは一般的に考えて「一流」と「超一流、天才と呼ばれるレベル」を分けるような基準ではないでしょうか。
「自分は天才ではないから努力しても無駄」?
そんな理屈はおかしいですね。
天才でさえ努力しなければその才能を開花することができないというのに!
才能を理由に努力をしないのは、努力しないことに対する言い訳っぽいですね。
やる気の問題かもしれません。
動機が弱いのです。


天才でなくても、つまり才能がなくても人間は努力することでかなりのところまで行けるものではないでしょうか。


「つくる」という考え方は、自分がしたい、なりたい、こうありたい、という望みをかなえる方法です。


美術を通して学ぶこととはそういう「考え方」なのです。
目の前に現れた課題に対して、何をどのようにすれば納得のできる結果が得られるのか。その色々なシミュレーションをしているのだと考えてください。
そのような思考回路を持つことで人生は楽しく豊かになるはずです。


表現するということ・美術の可能性

美術の授業というものは今のところ中学生までは義務教育、つまり必修科目になっています。なぜ美術は必要なのでしょう。


これまでお話ししてきたことがその答えです。
しかしこれまでのはなしからすると、美術から得られることは同じようにスポーツを通しても得ることができることになります。


実は音楽でも可能です。
逆に言えばだからこそ体育と音楽も必修科目なのです。


大きく言えばこれらは同じ思考回路を育むために行われている授業で、つまり色々な角度から同じ目的のために授業を行いながらどこかでその「こつ」をつかんでほしいということなのです。
「こつ」がつかめれば他のことにも応用がきくのです。
この三つの科目に共通する大きなテーマ、それは「表現」です。


スポーツも音楽も美術も一言で言えば「表現」なのです。



「表現」とは簡単に言えば「自分自身の存在を自分自身で確認、定義するための行為」です。


私はいったい何者で、どこから来てどこに行くのか、どんな意味があってここに存在しているのか!(自己確認)。さらに「私はどうありたい」のか!(自己実現)。



しかし人間は自分自身を自分だけの力では確認できません。
色々な時代、色々な国、地域、色々な文化をもった他人と比較することで自分が少しずつ見えてきます。
だからスポーツは競争します。
音楽はたくさんの人に聞いてもらい、美術はたくさんの人に見てもらいます。
そしてコミュニケーションを図ることで自分がどのようなものなのか知ろうとします。つまり自己確認です。


自己確認を進める一方で、自己実現のためにスポーツ選手なら、より優秀な選手と自分を比較し、優れた選手の真似をしてみます。
つまり学習するのです。


音楽ならたくさんの音楽を聴いて、やはり同時に真似ながら学習します。
美術ならたくさんの作品やさまざまな物、風景などを見て、そのでき方や在り方を真似しながら学習します。



それぞれに真似をすることで技術や方法を少しずつ身につけ、それらを利用して自分の表現を確立してゆく、つまり「こうありたい」自分へと定義してゆくための学習と努力が、自己実現を可能にするのです。


自分を知り、成長するためには他人が必要ですが、特に自分よりも優れた他人の存在が必要です。人類の歴史は長く、その長い歴史の中で人類が残してきた知的財産が世界にはたくさんあります。
そういう優れたものに触れることで自分自身をより広い世界で定義することができます。


「この長い歴史、広い世界で、なにがしたいのか、どうすればできるのか、私はなにものなのか!」
美術にはそのような「表現」を助けてくれる可能性がたくさん詰まっているのです。