秘すれば花
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず
これは世阿弥の書き残した『風姿花伝(花伝書)』の中の、よく知られた一節です。
解釈については、諸説ありますから読んでください。
もっとも正しい読み方は、原文のまま読むことです。
花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり
人が舞台で発見する「珍しさ」、この感動が花であり「面白さ」である。
つまり、「花」と「珍しさ」と「面白さ」、この三つは全く同じものであると言っているのです。
この「意外性が感動である」と観客が知ってしまえば、その効果は激減すると言っています。
ここで重要なことは、「感動とはそのような心のメカニズムで起こるのだ」という原理を観客に知られてはまずいということなのです。
観客が予想もしていなかったときに、ふと予想外のことを見せると、観客は驚き、感動します。
意外性など期待していないときに、そして演技者の側も、意外なことなど起こすつもりはまったくないというような態度のなかで、ふと予想外のことを起こすと、観客は感動します。
観客が「何か珍しいものが見られる」と、最初から期待しているのでは、意外性の効果はそれほどありません。
分目を知ること、肝要の花なり
「秘する花の分目」ということが、『花伝書』全巻の思想の根本です。
この「花」を「時分」が分けます。
分けて見えるのが「風体」です。
その風体は年齢によって気分や気色を変えます。
もともと生まれながらにそなわっているものが風情というもので、これがしばしば「幽玄の位」などともよばれます。
けれども世阿弥は必ずしも生まれながらの「幽玄の位」ばかりを重んじてはいません。
後天的ではあるが人生の風味とともにあらわれる才能を、あえて「闌(た)けたる位」とよんで、はなはだ重視しました。
「別紙口伝」の最終条
この口伝は「花を知る」と「花を失ふ」を問題にします。
そして「様(よう)」ということをあきらかにします。
問題は「様」なのです。様子なのです。
しかしながらこのことがわかるには、「花」とは「おもしろき」「めづらしき」と同義であること、それを「人の望み、時によりて、取り出だす」ということを知らねばなりません。
そうでなければ、「花は見る人の心にめづらしきが花なり」というふうには、なりません。
そうであって初めて「花は心、種は態(わざ)」ということになるのです。
ここで口伝はいよいよ、能には実は「似せぬ位」というものがあるという秘密事項にとりかかります。
単に感動のメカニズムを伝える、技術論ではないことがわかります。
物学(ものまね)をしつづけることによって、もはや似せようとしなくともよい境地というものが生まれるというのです。
そこでは「似せんと思ふ心なし」なのです。
「花を知る」と「花を失ふ」の境地がふたつながら蒼然と立ち上がってきて、『花伝書』の口伝は閉じられます。
この講座は「風姿花伝」
もちろん呼び名ではなく、中身です。
「デザイン」の授業をやっていると必ずでてくる言葉が、「センスがないから・・・」という言葉です。
世阿弥の言葉を借りるまでもなく、それが生まれながらのはずはありません。
子供の頃から描き続けていれば、必ず描く技術は手に入れているはずです。
では何が足りないのか?
「秘する花の分目」
ここを超えていないということがわかります。
すでに答えを書いているように、とことん真似をすることです。
よくデザインを真似てはいけないという話を見かけますが、間違いです。
仕事として真似はしてはいけません。
しかし、これから一人前を目指す人間が何をやれば良いのかといえば、「真似」しかないのです。
それも、世阿弥の言うように「真似していることすら忘れてしまう」ほどに、徹底的に真似るのです。
もちろん、この講座には年齢的に「はじめるには遅すぎる人」もいるでしょう。
では、人生のすべてをかけてください。
子供の頃からはじめるべきことを、いまスタートさせてみましょう。
もちろん、脇目もふらずにです。